当時を思い出しながら読む『物語消費論「ビックリマン」の神話学』

社会

大塚英志『物語消費論「ビックリマン」の神話学』を書店で見かけ、購入。
「ビックリマン」といえば、社会現象になっていた1987年〜88年は小学校一・二年生で自分も熱心に集めていた。当然、その名を目にしただけで懐かしさを感じてしまうが、本書を書いたのが大塚英志だということも興味を引いた原因の一つだ。
大塚英志といえば『魍魎戦記マダラ』、『多重人格探偵サイコ』の原作者である。
前者は小学生高学年の時に、後者は二十歳前後に熱心に読んでいた漫画だ。

本書は新しく書かれた物ではなく、1989年に出版され絶版になっていた『物語消費論「ビックリマン」の神話学』と『定本 物語消費論』を一冊にまとめられたものだ。
出版された当時の社会の事象を大塚英志が考察した内容になっている。

さて、大塚英志はビックリマンがそこまで売れた原因を「隠された大きな物語が背後に隠されていて、一つ一つシールを手に入れる度に、その全体像に近づくことができる仕掛け」にあるとしている。

自分が喜んでビックリマンを買っていた小学二年生当時を振り返ると、「大きな物語」に関しては特に意識してなかったように思う。その理由は、自分が集めていた1987年10月にはすでに、アニメのビックリマンが放送されていて、物語を提供するメディアがシールそのものの他にもあったからだろう。
シール裏面の物語の一部とおぼしき文章は、正直なところ、クセがあって理解できていなかった。
ビックリマンの世界で使われるキーワードが説明もなしに登場するので意味が分からなかったのだ。
ただ、その文章で描かれている物語(らしきもの、という認識だった)は子供の興味を引くには十分魅力的に見えた。

物語は理解できなくともビックリマンを買い続けた理由は他にもある。
シールのイラストが好きだったことと、周りの友達たちもシールを集めていたことだ。

シールに描かれたキャラクターを自由帳に模写したり、複数持っていたシールは武器や翼などのパーツごとにハサミで切り分け、張り合わせてカスタマイズしていたりした。

周りの友達が集めていることで、自分の持っていないシールを見て欲しくなり、またビックリマンを買っていた。もちろん交換などしていたが、なかなか欲しいシールが手に入らず悔しい思いをしたことを覚えている。親に頼んで“大人買い”している同級生がうらやましかった。

本書ではビックリマンに見られる神話的な大きな物語の消費のされ方や同人誌などの楽しまれ方から、宗教に関する解説までサブカルチャーを元に当時の社会で受け入れられていた物事が編集者の視点で背景が語られていて非常に面白く読んだ。

本書で自分が一番興味深いと思ったことはビックリマンの原作者に関する記述で、ビックリマンの物語は原作者の口述に近い手法で作られていったことだ。神話的な物語を緻密に組み上げて作り上げたのではなく、しゃべるように物語を語っていたのだというのだ。以下、その箇所を引用。

出口王仁三郎が神に疲れた如くに『霊界物語』を口述してしまったように、この作者もほとんど口寄せに近いノリで「ビックリマン」を作り上げてしまったようだ。

この某氏はたまたまお菓子メーカーの関係者であっただけの話で、まかり間違えば新宗教の教祖になってしまう資質の持ち主だったようなのである。

『物語消費論「ビックリマン」の神話学』P.243

1987年の日本では新興宗教も社会問題となっていた。この年、オウム真理教が成立している。
おそらくそれ以外にも新興宗教に人が集まった時期なのではないかと思う。
本書でも解説されているが、宗教にとって“大きな物語”は必要不可欠なのだ。
教祖が語る大きな物語のために信者の一人一人が存在していて、それぞれの使命を果たすために生まれてきた云々・・・。
そのような背景を各々が持っている、とか生きていることに意味を与えられないと不安な社会になっていたんじゃないだろうか。あるいは、単に孤独な人が集まって居場所を作ることに熱心になっていたのかもしれない。

とか考えていたら、宮台真司『終わりなき日常を生きろ』に“大きな物語”や80年代の宗教ブームが語られていたことを思い出した。「大きな物語に期待しないで、輝きを失った社会でまったり生きる」ことを推奨していたかと思う。

本書を読んだ後知ったが、物語消費論に関する新刊が出るらしい。
物語消費論の発表から30年以上経ち、その間にオウム真理教事件や震災、新型コロナの流行など大きな出来事があった。それらを経て、どのように社会が変わったのか。楽しみに待とうと思う。